ガモウ関西 映画通、なっかんコラム Vol.3
2018.05.03 Thursday
気狂いピエロ
今年のカンヌ映画祭のポスターがジャン=リュック・ゴダール監督の「気狂いピエロ」のワンシーンを用いたものになりました。
この「気狂いピエロ」という作品は1965年のフランスの作品で、私の中でも5本の指に入る位、大好きな作品です。そしてこの作品のタイトルの読み方がちょっと変わってまして、こちらは「きぐるいピエロ」とは読まないのです。「き○がいピエロ」(自粛)と読むのです。
これは完全に放送禁止用語です。今では考えられない邦題です。時代を感じますよね。
この題名だけ聞くと、狂ったピエロが無差別殺人をする、そんなバイオレンスな、スプラッターなイメージをお持ちではないでしょうか?
(毎度、陳腐な想像力ですいません。。。)
しかし、そんなイメージとは程遠い作品となっております。
ざっくりとしたストーリーは、主人公の男が元カノと出会い、家族を捨てて一緒に逃げるのですが、元カノが裏社会の方々と付き合いがあり、その方々に追いかけられるといった内容です。いやいや、ストーリー聞くとバイオレンスやん!と思われるかもしれませんが、それが違うんです。どちらかというと小難しいフランス映画の類になるのかもしれません。
まず、この作品の監督、ジャン=リュック・ゴダール(以下ゴダール)についてお話させていただきます。
この監督は1950年代末、当時の若手映画監督達と共に、これまであまりなかった、ロケ中心の撮影、同時録音、即興演出などの手法を用いて作品を作ります。
この映画運動を、ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)と呼びます。このヌーヴェルヴァーグの代表的な監督の一人がゴダールです。
ゴダールの初期の作品は、ストーリーがわかりやすい、見やすい作品になるですが、中期になると、政治色が強くなっていき、ついには商業映画と決別します。
中期の作品の私自身の感想としては、当時の時代背景や、政治について知識がない為、内容があまり理解できない難しい映画という印象がありますが、惹きつけられる映画であるのは間違いありません。
そして、後期になると、商業映画に復帰します。
復帰してからは、ストーリーもまだわかりやすくなっております。
が、わかりやすくなったといえ、やはり個人的にはゴダール作品は理解するには大変難しい作品と私は感じています。
1回見てもなんのこっちゃな作品もありますし、作品を観るのにとても集中力がいります。初めてゴダールをご覧になられる方は、初期の作品から見ていただく事をお勧め致します。
とはいえ、映画の歴史を語る上でゴダールは欠かせない存在でありますし、ゴダールの映画はまさしくゴダールしか撮れない特別な映画である事は間違いありません。
さて、きち○いピエロに話をもどします。この作品は、赤、青、(たまに黄色)の三原色が鮮やかに作品を彩っています。
衣装であったり、小物、ベンチ、壁等あらゆるところに赤、青の色が使われています。この色使いが作品の魅力の1つであります。
また、作品内では様々な詩や文学が引用されています。こうした引用が作品のいいアクセントになっています。
また、ヒロイン役のアンナ・カリーナはゴダールの元妻です。元カノ役を演じているのが元妻だということは、主人公はゴダール自身の分身として描かれているのか?とも思いを巡らせてしまいます。
また、この作品の中で私が大好きなセリフがあります。
それは、主人公がパーティーへ行った時、本人役で登場しているアメリカの映画監督サミュエルフラーのセリフです。
主人公が彼に、映画とは何か?と問います。すると、こう答えます。
「映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。要するに、エモーションだ」
エモーションとは、感情、感動という意味です。
映画はいろんなジャンルがあるけども、結局映画とは感動である。そういう意味だと私は受け取っています。このセリフを聞いた後、これは映画だけでなく、音楽であっても、写真であっても、どんな芸術作品も当てはまるのではないかと私は思っています。
誰の心も打たない作品は、ただの独りよがりな代物になります。この代物が誰かの心を打って始めて作品となる。すなわち、エモーションが独りよがりの代物を作品へと昇華させるのではないかと私は考えております。
フランス映画で今から半世紀近く前の作品、映画好きでないと手が伸びないような作品ではありますが、ミュージカルがあったり、主人公が突然観客に話しかけたり、コントの様なシーン(意図的ですよ)があったりと、今の映画にはない新鮮さが味わえる作品ではないかと思います。
ご興味があればごらんくださいませ。
ご清聴ありがとうございました!